ベッドのふちに腰かけて、文庫本を読んでいた。机に向かっていなかったのは、もう夜も更けているし、眠くなったらそのまま寝ようと思っていたから。
だから、ノックもなしに勢いよくドアが開いたときには、心臓が止まるかと思った。
「ハールキ!」
時刻をまるで考慮していない、普段通りの元気いっぱいの声。
「……今何時だと思ってるんだ、アラタ」
ヒカルと一緒に、宿題を教えてなどと言って押しかけてくることはしょっちゅうだが、一人で来るのはそういえば珍しいかもしれない。唇に人差し指を当ててみせて咎めながらそんなことを思っているうちに、アラタは上靴を脱ぎ散らかして我が物顔で部屋に入ってくる。
「何してんの?」
すぐ隣に勢いよく座られて、身体が跳ねた。本当に、こいつにはパーソナルスペースという概念がない。
不意を突かれると、動揺を隠せなくなりそうで。素早く平静の仮面をかぶり、できるだけ意識を逸らそうと目を閉じる。
「見ての通りだ。本を読んでる」
「……ふーん?」
熱い吐息混じりの声が、息がかかりそうな距離どころかほとんど直接耳たぶを震わせて、今度こそ心臓が止まりそうになった。肩も太もももぴったりつけて、顔はもう焦点が合わない距離まで近づいていて。
手に持っていた本のことなんか一瞬で頭から消えてしまった。
「……あ、アラ……」
「なー、ハルキ」
たまらず飛びのいて金魚みたいに口をぱくぱくさせる俺にはお構いなしで、アラタの顔が、差しのべられた手が近づいてくる。背中がベッドのヘッドボードにぶつかってそれ以上後ずさりできなくなった俺の脚をまたぐように手足をついて、笑っている。今まで見たこともない表情。
「キス、しよ?」
「……へ!!?」
自分の口から飛び出たあまりにも間の抜けた声を繕う余裕もない。顔どころか身体中が燃え上がりそうに熱くて、爆発寸前の心臓の音が耳元まで響いてわんわん耳鳴りがする。脚の上にのしかかられ、顎と肩を掴まれて、身動きもできない。
いや、違う。跳ねのけて逃げ出すことなんて、その気になれば簡単にできる。
そうしないのは、俺が。
「ハルキだって、俺としたいんだろ?」
微笑みの形を貼りつけた唇がずいと近づいて、目の前が暗くなる。
俺は、ずっと、お前を。

「〜〜〜〜〜ッ!!!」
飛び起きた背や首筋は汗でびっしょり濡れていて、冷気に晒されて粟立つ。布団ごと抱え込むように身体を丸めて、呻いた。
なんて夢を見てるんだ、俺は。
夢とは思えないほど生々しく残る手や指の感触をなぞるうち、下半身の違和感に気づく。布団の下をそっと覗き込んで、しっかり反応している自身に泣きたくなる。
「随分うなされていたようだが、大丈夫か」
唐突に声をかけられ、ハルキは思わず浮いていた布団を上から叩きつけるように押さえ込んだ。突然の打撃に上がりそうになる悲鳴はなんとか噛み殺して平静を装い、声の方に向き直る。
「……ああ、なんでもない。悪い夢でも見たんだと思う。覚えてないが」
勉強机の前にある小さな椅子に座ったまま、身体をひねってハルキの方を覗き込んでいたムラクは、普段通りの無表情だった。同室になってしばらく経ち、日頃の会話は増えてきたものの、その表情から彼の感情を読み取るのは未だ難しい。
「うなされながらアラタの名前を呼んでいたぞ」
「!!!」
ポーカーフェイスの爆弾発言に、喉元まで飛び上がった心臓がそのまま口から転がり出てしまうのではないかと思った。全身から汗がどっと噴き出す。
「……そ、ッ……それは……ああ多分、昨日のウォータイムでアラタの奴が無茶をしたのを注意したから、そのときの夢でも見ていたんだろう。転入してきた頃と比べたら随分減ったけれど、あいつの無茶は未だ健在なんだ。困ったもんだよ」
「……そうか」
聞かれてもいないのに早口でしゃべり倒し、肩を揺らしながら呼吸を整えてやや平常心を取り戻したハルキは、枕元の時計に目をやる。
「……もうこんな時間か。済まないなムラク、騒がしくして」
「いや、俺もこれから寝るところだったから構わん」
ムラクは静かに答えると、トイレに行ってくる、と部屋を出ていった。
静寂に支配された室内に、未だ収まらない自分の動悸が響いているような気がして、ハルキは両膝を抱えて深々とため息をついた。
否応なく、脳裏に貼りついたままの彼の幻が蘇ってくる。
夢は願望を映す鏡とは言え、先程のは露骨すぎた。だいたい、自分が強引に迫るならともかく、相手に迫られる夢を見るとはどういう了見だ。自分に都合がよすぎやしないか。
なんて、浅ましい。情けない。
ずっと秘めておくつもりだった。いっそ消し去ってしまいたかった。クラス委員長として小隊長として、誰にでも平等に接しなければならないと、ただ一人に思い入れるわけにはいかないと、そう思っていたから。
けれど、消すことなんてできなかった。

“ハルキだって、俺としたいんだろ?”

ああそうだ、どんなに抑え込んでも、忘れようとしても、俺は。
あいつが好きで好きで、たまらないんだ。
触れたくて、抱きしめたくて、キスしたくて、たまらないんだ。
「……アラタ……」
やり場のない熱が、熱い息の塊になって零れ落ちる。情けなく疼き始める身体を持て余して、ハルキは布団から抜け出して足を床に降ろした。こんなもの、さっさとトイレに流して忘れてしまおう。あとからもっと情けない思いをするとわかっていても。
そのとき、ドアが静かに薄く開いた。ムラクが戻ってきたのかと投げた視線に映るのは、紫を帯びた漆黒ではなく、鮮やかな緋色。
「……ハ〜ルキ」
声のボリュームや調子は随分違ったけれど、その光景は今しがたの夢そのままで。


時間が、息が、止まる。